大学院に入って二年ほどして少し慣れてきたら、大学の外国語学科の日本語のクラスで学部生に日本語を教えたり、個人的に家庭教師(むふ・・違)をしたりして小遣いの足しにした。
今の州立の大学院ではAssistantshipやScholoarshipに恵まれているけど、この豪雪地帯の大学院は私立で修士の学生はもとより博士課程の学生にすら学費援助はほとんどなかったから、アメリカ人の院生の中には仕事二つ掛け持ちしてる人なんかもいてみんな大変だった。
もちろん、留学生のあたしには学外で働くことは認められなかったので、学内の仕事(Assistantship)ももらえない状況では学費や生活費はほとんど親に頼るしかなかった。
そう、自分ひとりでがんばったみたいに書いてるけど、これもうちの両親にそれだけの経済的余裕があって恵まれていたからこそできたこと。
「金のことは心配するな」
父がそんなふうに言ってくれなかったら、心身ヘトヘト状態の上にお金の心配まで背負い込んでいたら、あたしはとっくに潰れていたと思う。
それから高校時代からの親友(悪友?)たち。
手作りのお守りを作って持たせてくれたり、当時は"パソコン通信"というのが一般に普及しはじめたばかりで、日本語のやりとりができなかったのに水森亜土語(=ローマ字)でメール送ってくれたり。
一度はこの豪雪地帯までみんなで会いに来てくれたりもした。
ある時期、その頃の自分はカルチャーショック(または異文化適応障害?)の症状でかなり"うつ"の"しんどい"状態が続いていて、所謂精神的に"壊れ"かけていたんじゃないかと今になって思うけど、ちょっとしたことでその親友の一人と喧嘩になった。
日本を離れて海外で生活したことのないその親友に、あたしの孤独とか不安とかしんどさが理解してもらえず、
アンタにはわからへんねんからもういいっ!
そう怒鳴って電話を切ろうとしたあたしに、その親友はこう言った。
「アンタは何にもわかってへんな。たとえばもしアンタが誰かを殺したとしても、私は『よっぽどの事情があったんやな』と思うわ」
何でそんな物騒なたとえ話が出てきたのか今となっては全く思い出せないけど、この台詞とその時の驚きのまじった感動はよく覚えてる。
そういうことがなかったら、きっとあの時ダメになっていたと思う。
で、学業の方は二年目の夏だったかに再び危機に襲われた。