ニッポンは一足先に新年を迎えていて、大阪の実家では毎年元旦の午前10時にみんな集合してお雑煮やおせちをいだたく習慣になっているので、その時間に合わせて電話をしてみたら、母が電話に出てちょっとびっくり。
いつもなら母はお雑煮の準備で電話になんか出る余裕はないハズ。
聞いてみたら、義妹(真ん中の弟の嫁)が新年早々38度の熱を出して来れなくなったとか。
その弟夫婦には今年(2005年)の5月に念願の子どもが産まれて、このお正月はその子の初めてのお正月で、ばーちゃん(母)はみんな勢揃いするのをきっと楽しみにしてて、おせちもまた山ほど作ったんだろうに。
「淋しいよ」と言う母に、そうやなぁせっかくみんな揃うところやったのになぁ、と言ったら、「そもそもあんたが帰ってこんのが悪い」とイキナリ風向きが替わったのであわてて、そうそうあたしがおらんからどっちにしても勢揃いとちゃうからええやん、とごまかした(;^_^A
その弟夫婦のところには後でおせちをデリバリーするらしい。
下の弟夫婦とチビたちは遅刻。
甥っ子(5才)と姪っ子(3才)のワルガキ二人がやってきたら、すぐ賑やかになって淋しいなんて言ってられなくなるハズ(笑)
その後父とも少し電話で話した。
父71才、母64才。
何があってもおかしくない年なのに、二人とも元気で未だに現役で商売をしてる。
アメリカに長年留学をしてて一番ありがたいと思うのが、日本にいる家族が健康でいてくれること。
豪雪地帯の大学院(修士課程)の5年間も、ココ(博士課程)の5年間も、みんな大きな病気もせず事故や怪我もなし。
大切な人たちから遠く離れた海外にいて一番辛いのは、その大切な人の身の上に何かが起こったとき。
すぐに駆けつけることはできないし、状況もよくわからないし、何もできないし、ただただ心配するだけ。
うちのプログラムのインド人留学生の一人が、ひと月ほど前にお父さんを交通事故で亡くした。
すぐにインドに飛んで帰ったけど、死に目には間に合わなかった。
前からそのコのお母さんは病気がちでおばあさんも集中治療室に入っていて、お父さんが二人の世話をしていて、病院に行く道であった交通事故だったらしい。
去年(2003年)も別のインド人留学生のお母さんが病気で倒れた。
学期の途中ですぐ帰れなくて、お母さんのことを心配しながら授業の課題をこなそうとしていたそのコ。
途中、お母さんの病気は一旦回復に向かったと思ったら、再び悪化。
もうちょっとで学期が終わるというところで全部放り出して帰る決心がつかないそのコを、アドバイザーの先生が説得して、そのコがインドに帰ってすぐ、そのコの帰りを待っていたかのようにお母さんは亡くなった。
この二人の気持ち痛いほどよくわかる。
どうかうちの両親にはあたしが帰るまで元気で居て欲しいと心から思う。
神戸の震災のとき、豪雪地帯の大学院にいて、あたしの大好きな街がズタズタに傷ついて、沢山の人が亡くなったのをテレビで観てた。
何もできないのがあれほど辛かったことはない。
帰ろうと思った。でも、当時のプログラム・ディレクターの先生に「私があなたのご両親だったら、今はあなたに安全なところに居てほしいと思うわ」と説得されて、踏みとどまった。
今年の春前には、下の弟のアルコール依存がひどくなって、義妹は情緒不安定になって離婚を言い出すし、甥っ子は突発性の高熱を出すようになった。
母は心配のあまりに痩せ細って行って、父も「俺は今まで何をやってきたんやろう・・・」と今まで言ったことのないような泣き言を言い出す始末。
毎日のように母や父から電話がかかってきて、話を聞くしかできなくて、心配で心配で。
あの時は、とりあえず仕事には行ってたけど、それだけが精一杯で論文には全く手がつかなくなった。
ひと月近くそういう状態が続いて、結局親戚も上の弟もみんな巻き込んで、やっと下の弟に事の重大さが少し伝わったようで、とりあえず騒ぎは一旦収束した。
だから、遠くにいる家族が元気でいてくれるということは、何よりもありがたいことだと思う。
あたしも今までアメリカでは病気をしたことがないし、怪我も事故もしたことがない。
異国で好きなことをさせてくれている両親に、"心配をかけない"ことは、あたしの義務だと思ってる。
来年も、みんな元気でいられますように。
【我思ふ処の最新記事】