あたしの夢は日本を変えること、なんて言うとニッポンの人たちにはきっと笑われてしまうんだろうな。
エーゴで言うところの"I wanna make a difference."
その夢に向かってずっと歩いてきた。
真っ暗なトンネルのはるか向こうに見える一点の光を頼りに、道なき道を手探りで一歩一歩歩いてきた。
博士号取ったらニッポンの大学に就職して、まだニッポンの大学にはないあたしの専門のプログラムを作って・・・
あともうちょっと、あともう少しで外灯のある夢行き通りを歩けるようになる。
でも、現実はそう甘くはないらしい。
ニッポンの大学にはあたしの専門の学部がない。ということは、当然教員のポジションもない。
仕事が、ない。
ナイナイナイっ、恋〜じゃない、ナイナイナイっ、で〜もとまらない〜♪(←歌ってるらしい)
専門に近い分野に潜り込もうと、二年前から教員の公募に応募し続けているけど、コネも何もないどこの馬の骨かもわからない外国在住の一介の学生にチャンスを与えるような、大博打をしてくれるところなんてない。
そんなある日、こっちの大学の先生の一人にこう言われた。
「こっちでアプライしてみたらどうだ?」
これまで、他の先生にも何度か言われたことがあるけど、「日本に帰りたいから、日本に帰って夢を叶えたいから」と聞く耳を持たなかった。
いや、本当は怖かった。無理だと思い込んでいた。
あたしなんかに、アメリカの大学の教員が勤まるはずがない。
エーゴの文献を読むのは遅いし、同じ時間で取り込むことができる情報量は日本語の場合に比べてエーゴだとはるかに少ない。
それに加えてエーゴで書くとなると、ちょっとしたペーパーでも我が身を削る思いで七転八倒する。
学生ならそれでも何とか騙し騙しやってこれたけど、そんな"ハンディキャップ"を抱えてアメリカの大学の教員としてやっていくなんて絶対無理!
そう思い込んで、ニッポンに帰る理由を探し続けていた。
でも近頃はこんな風に思う。
あたしにはそのハンディキャップ以上に、アメリカの大学でオファーできるモノがあるんじゃないか、と。
たとえニッポンで就職できて、専任講師から始めたとしても安月給の上に雑務に追われてNO LIFE。
アメリカだったらAssistant Professorの肩書と、そこそこの給料と、少しは人間らしい生活が手に入る。
それに研究だってニッポンよりアメリカの方が、リソースが豊富で何かとやりやすいに違いない。
夢を諦めるわけじゃない。
また遠回りになるのかもしれないけど、アメリカで数年仕事をして、肩書ぶらさげてニッポンの大学に乗り込でやれ!
あるいは、アメリカの大学をベースにニッポンの大学とエクスチェンジ・プログラムを作るって手もある。
そういう方法の方が逆に近道になるかもしれない。
そんな風に考えて、アメリカの大学にもアプライしてみることにした。
正直言って、怖い。ものすごい怖い。
家族がいるならともかく、たった一人で・・・
なんて考え出すとキリがないので、とりあえずアプライしてみてもし雇ってもらえたらそれから考えることにしようっと(←B型)
ニッポンかアメリカか、神様(?)がちゃんと進むべき方に道をつけてくれるはずさっ。
【大学教員へのイバラの道の最新記事】
面白く拝読いたしました。僕は最近になってようやく博士号&アメリカの大学教員への道を決意したのですが、やはり自分も言葉のハンデを感じてしまいます。それでも、折角アメリカまで来たので頑張ってみようかと思っているところです。
僕も、大げさな響きですが「make a difference」っていうことを考えてますよ。自分にしかできないことをやる、って決めたので。
就職活動、頑張ってください☆
○○よ大志を抱け!(○○には適当な言葉を入れてください・笑)
くろさわさんこそ、がんばってください。
もしかしたら、ELさんは、日本での大学教員(文系)のステップアップの仕方を、誤解していらっしゃるんじゃないかなと思います。日本では、たとえ博士号を持っていたとしても、よほど優秀で名前が知られているのでもない限りは、大学院を出ていきなり専任講師ってのはほとんど無いんです。非常勤講師をいくつも掛け持ちしながら、業績をあげて専任講師・准教授の仕事にアプライしていきます。だから、ABDや博士号取得したばかりの人間が面接で断られても当り前なのです。
それから、本当に日本には発表できる場が無いのでしょうか? どうやらご専門がアメリカ生まれのようなので、日本ではどんぴしゃりの学会や研究誌は無いかもしれません。けれど、隣接分野のものであれば、発表できるのではないでしょうか?
日本の人文社会系の学術世界では、英語論文が多少あるよりも、日本語論文があるほうが、「どこの馬の骨かわかる」と受け取られる傾向があるようです。他のアジアの地域の状況と比べるとびっくりかもしれませんが、好意的に考えれば、それだけ他のアジア地域よりも日本の学術世界が比較的英語帝国主義から自立を保っているということなのです。また、逆に言えば、英語圏から見ると鎖国状態かもしれません。単純に英語論文をばりばり読める人間が少ないという事情もあります。
ELさんの人生なので、ELさんが納得いく生き方をしていけるならばそれでいいんですけど、個人的には、ELさんの日本でmake a differenceしたいという初志をいずれは貫いて欲しいなあと思います。ELさんならば、きっと、パートナーシップで悩んでいる日本の人々のために大きな助けができると思うので。
そのうえ、分析者の感覚が次第にアメリカ化してきて、本来、そこで発達した手法の妥当性を批判的に検証していかなければならないのに、それがおろそかになる危険性もあります。
たとえば、このブログで、以前、研究への助力を頼んだ旧友に強い拒否反応を示されたということが書いてありましたよね? そこを読んでいて私が思ったのは、
(1)そもそもELさんは拒絶反応を示す人もいるかもしれないということに予め配慮した依頼文を添えなかったのだろうか?
(2)今回、集まったデータを分析するよりも、拒否反応を示されたということ自体を興味深い反応として考察すべきではないか?それが手法の根本的かつ批判的な見直し(=ローカライゼーション)につながるのではないか?
ということでした。要は、なんとなく、「アメリカの『科学的』手法で日本の事例を分析されることへの日本の人々が感じるであろう違和感・拒否感」にELさんがあまりにも無頓着だったのではないかと、僭越ながら思ってしまったのです。私自身の体験を振り返ってみても、そういう現地人としての感覚は、やはり日本を離れるとどんどん失われていってしまう気がします。
もし、本気で帰国して教育者・研究者としてやっていきたいと思っていらっしゃるのであれば、非常勤講師掛け持ちの苦労を厭わず続けるガッツで帰ってきて欲しいなあと思います。40代でアメリカで学位をとって日本で就職したredsunflowerさんのブログ「ある女性研究者の日記」は、その点、参考になるのではないかと思います。
もちろん、アメリカで研究・教育にあたれば、それはそれで現地の人々に世界の文化的多様性を教えるという大きな使命を果すことができますけれどね。
(私の北米での心のmentorに説教じみたことを言ってしまいました。すみません。何かの参考になれば幸いです)
>ニッポンの大学にはあたしの専門の学部がない。ということは、当然教員のポジションもない。仕事が、ない。
ニッポンの大学の講座名なんてのはいい加減なので、授業の看板と中身が全く違うなんてことはよくあります。そのものずばりの講座でなくても、大きなくくりで「それっぽい」ならばOKだと思います。多分、ELさんであれば、心理学や社会学、コミュニケーションなどの学部にアプライできるはずです。
あと、アメリカでは数日かけてじっくり面接するように日本の大学だとあっさりした面接や模擬授業で決められてしまうと嘆いておられましたが、どうも、日本では、学会や研究会その他で発表したり活動に参加したりする中でこちらの人となりを覚えてもらうようです(友人談)。考えようによっては、ものすごい長期の面接ですね。
長くなってすみません。
いや、実はまだABDのときに日本の大学(専任講師)にアプライして面接まで呼んでもらったことがあるんです。全く可能性がなかったら、交通費(国内分だけでしたが)出してまで候補者を呼ばないんじゃないかと・・・?
それから、発表の場がないのではなくて、大学にあたしの専門の学部がないんです。発表の場はないことはないです。
おっしゃるように他の学部で通用すればいいんですが、何せ院の頃からこの道一本の専門バカなもんで(^_^;)しかも、うちの専門は比較的新しい分野なので、そういった関連の分野からはほとんど認められてないんです。これはアメリカでも然り(T_T)
研究内容に関しては、おっしゃるとおりで(2)の点はガッツリその後の研究に生かしておりますです(`O´ゞ
何せ異文化問題があたしの専門の一つになりつつある今日この頃なので、欧米の視点から日本やアジアを見た研究には辟易しています。アメリカ暮らしが長くなるにつれて自分もそんな風になってしまうんじゃないかという不安はつきまといますが、その点“あたしはアメリカ人ではない”ということを売りにしていると、周囲の人からも日本人としてアメリカ人にはないモノの見方を求められているようなところもあるので助かっています。
アメリカにあって日本にないものを日本に持ち込むというのは意義のあることだと思いますが、それをそのまんま持ち込んだんでは通用しないですよね。あたしの博論の研究はそれをどんな風に持ち込めばいいかを知るための本当に初期の研究だったので、どんな反応でも今後の重要な研究材料になります。ただ、あんまり変えちゃうと今度は他文化との比較ができなくなっちゃうので、これまた難しいところ。
ただショックだったのは、数十年来の友人にあたしの研究“テーマ”(博論研究そのものではなく)を根底から否定されたことだったんです。自分がコレだ!と思って何年も取り組んできたものを根こそぎ否定されると、自分の存在そのものが否定されたような気になっちゃったんです。
色々と気に掛けていただいて、恐縮です。
その後色々と状況は変わりつつありますので、近いうちに近況報告をしたいと・・・(こればっか)